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大丸用水散策 弁財天堀

 大丸用水の二次堀の調査、今回は弁財天堀です。と、いつもと同じ書き始めなのですが残念なことに、この堀はもう存在していませんでした。堀が無いなら記事にする必要も無いのですが、調べたけど無かった。ということを記録に残すことも大切なことだと思うので、まとめてみます。

▼古地図による弁財天掘の位置
弁財天堀水路図
 流れは、大堀の第4保育園の前から始まり、新堀が南武線を横切るあたりで終わるように書かれています。しかし、このルートをどう探しても弁財天堀はみつかりませんでした。

▼第4保育園前
第4保育園
 古い地図によると、大堀が大きく右に流れを変えるこのあたりで、弁財天堀は始まるはずなのですが、なにもありません。

▼堀が流れていっていたはずの方角を望む、
20100802R0019463.jpg
 都営稲城アパートがあるだけです。

 なぜ弁財天堀は消えてしまったのでしょうか。以下は私の推理です。

 この都営アパートの場所は、昔は多摩火薬製造所の宿舎があったそうです。戦争の拡大で火薬の大幅な増産が必要になり、ならば要員の宿舎も大急ぎで拡張する必要があったでしょう。その際、用水堀などどうでもよかった。あるいは、この堀で灌漑されていた地域全体で稲作が放棄されたのかも知れません。

 水利権というのは、たいへん強力な権利で、簡単には侵されないもの。だからこそ、古い地図に書かれている水路が今でもきちんと残っている、というのが私の理解です。しかし、戦争の前には、こんな決まりごとなど、どうでもよくなってしまうのでしょうね。恐ろしいことです。

 ところで、弁財天堀という名前。これは水路のどこかに弁天様が祭られていたから、この名が付いたのだと思われます。日本軍も神様は大切に扱ったはずです。水路は無くなってしまいましたが、弁天様は今でもどこかに残っているかも知れません。

 ということで、そのようなものが残されていないか調べてみると、、ありました。

▼弁財天のほこらか?
弁財天の祠か?
 夕方のフラッシュ撮影なので、ちょっと印象が変わってしまいました。
 場所は川崎街道の東京トヨペットに向かってすぐ右。送電線の鉄塔の前です。残念ながら、文字などが刻まれていないので何のほこらかは特定できません。まさか、ほこらの扉を開けて中を調べるわけにもいきませんが、位置からいって、これが弁財天である可能性は高いと思います。

 このほこらには花が具えられていて、今でもお世話をしている方がいらっしゃるようです。運良くその方に出会った時にでも、お話を伺って確かめるしかなさそうです。

 身近な大丸用水にも、こんな戦争の傷跡が刻まれていました。
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